2019.10.9
符号や目印、外観が存在するとき、そこには必ず、あざむきが起こります。
目印が、私達の目をくらまし、裏切るのです。
でも、目印が覆い隠そうとするものを明らかにし、あるがままに物事を見ることは可能です。
私達は瞑想を20年続けてやっと、現実をあるがままに見ることができるようになるのではありません; これは私達の日常での実践なのです。
家や仕事場など、私達のいる場所なら、どこででもできます。
人や物事を深く観るとき、私達はその本質を発見できるのです; その相互の依存性や関連性の性質が、私達に見えてくるのです。
マインドフルに飲んだり、食べたりするとき、私達は現実へと触れています。
私達には、一切れのパンの現実そのものがわかり; 兄弟や姉妹、パートナー、職場の同僚、我が子の真の姿がわかってくるのです。
お金や資産の性質を、深く見つめれば、それらは、今すでに私達が触れられる以上の幸福は、もたらさないことがわかります。
私達が深く観れば観るほど、物事がより明確に見えるようになっていきます。現実が少しずつ姿を現して来るのです。
現実をあるがままに見るとき、私達の欲望は失せ、怒りは解け、恐れは去っていきます。
欲望を追い求めることで、私達はこれまでにたくさんの苦しさや絶望をこうむってきました。
気づきをもった消費を約束することは、私達自身の幸福を約束することです。
一歩一歩の歩み、ひとつひとつの呼吸が触れさせてくれる幸せのための場所をつくることは、私達の意識的な決断です。
すべての呼吸と、すべての歩みとは、滋養と癒しとなり得るものです。
気づきと共に、息を吸い、息を吐く時、また気づきをもってこの一歩を歩むとき、私達はこう呪文を唱えることができるのです;
『今この瞬間が、幸せの瞬間』
ティク・ナット・ハン
日本語訳・西田佳奈子