シスター・アナベル・レイティ|2020年8月19日
ティク・ナット・ハンの存在は、中央ベトナムにある慈孝寺にある種の落ち着きの感覚をもたらしている。以前に比べ、庭は念入りに手入れがされ、人々は頻繁にほほ笑みを交わすようになり、19世紀の建築様式を保つ寺の建造物は不可欠だった改修を経た。
側近たちにいざなわれたティク・ナット・ハンが、いつ散歩を楽しむために車いすで住処から出てくるかは予測がつかない。庭園の配置はほとんどティク・ナット・ハンが16歳の見習い僧だった頃のままだ。瞑想的なそぞろ歩きについていくと、ティク・ナット・ハンは見習い僧だった頃の思い出の場所をいくつか指さして見せる。
親愛の情をこめてタイと呼ばれる私の師ティク・ナット・ハンは、医師の誰もが予測したよりもよりよい経過を送っている。奇跡の回復を遂げたといってもいいだろう。2014年の脳いっ血で起きた出血が体内で再吸収されるとは、誰一人予想していなかった。日々後遺症の困難と肉体的な痛みとの対峙を余儀なくされているが、その忍耐力は偉大だ。
私たちの伝統のプラムヴィレッジには9つの僧院がある。2014年11月、初めてタイの脳溢血の知らせを受けた時、私はタイ国のプラムヴィレッジ僧院にいた。世界中のプラムヴィレッジの法師たちの緊急会議が開かれた。タイの治癒をどうやって支えるのが最善なのか?フランスの医師たちは先行きを楽観しなかったため、私たちはタイの回復のチャンスはごくわずかしかないと信じることとなった。このため私たちはタイが般涅槃(死後の涅槃)に入った際の葬儀をどう執り行うかについても話し合わなくてはならなかった。
会議の後、私は涙が出そうだった。僧院のバルコニーに出ると、心配事など何一つないような鳥の歌が聞こえてきた。私は鳥たちに尋ねた:「こんなにも私が悲しいのに、なぜそんなにも喜びに満ちているの?」すると、鳥たちが、タイがずっと長く、10年かあるいはもっとずっと長く、今の身体のままで存在しつづけるのだと言っているかのように私には思えたのだった。その時から私は、タイがまた話し、歩くようになるかもしれない、という望みを胸に抱いている。
2016年後半、タイ国の大規模なプラムヴィレッジ僧院に行くためにフランスを離れる希望をタイは弟子たちに合図した。数多くのとりわけ出家したての僧侶たちの養育の場であるため、「育苗場」とも呼ばれている僧院だ。そこでは新米僧侶たちの多くが、これまでタイと対面したことがなかった。タイが行った時、師と共に座り、師のために料理し、付き添う彼らの喜びはまったく素晴らしいものだった。ベトナムからもたくさんの在家の仲間がタイに会おうとタイ国を訪れた。
2017年秋、タイ国に戻った私は、タイの庵を訪ねた。タイは左腕で力強く抱擁したり、祝福の為に頭や額に触れることができた。タイの肉体的な存在を感じることができて、私はとても幸福に感じ、一緒に涙を流した。タイは未だに私を認め、言葉のコミュニケーションはないにもかかわらず、私の思考が分かったのだ。タイは私をしばらく抱き寄せた後、私のドイツへの出発のため、私の額に手を置いた。タイが麻痺からひどい頭痛を起こしていることを知っていた私は、面会したタイの思いやりと寛大さに心打たれた。
その翌年、タイは私たちの伝統の起源である慈孝寺へ行きたい旨を弟子たちに示したが、いくつかの誤った報道で、タイが見習い僧としてもっとも幸せだった時代の場所で、間もなく最期を迎えるために起源の寺へと戻った、と伝えられた。タイが最期まで慈孝寺で過ごしたい意思を示したのは本当だが、間もなく最期を迎えるという憶測は真実ではなかった。現在の東洋医学の主治医たちはタイの生命力は未だに強いとしており、涅槃入りが差し迫っているとする理由はない。
タイのベトナム帰国の決断が発表されたとき、私はフランスのプラムヴィレッジにいて、年次の秋の雨安居の最中だった。多くの人がタイの間もなくの逝去を危惧したため、また法師たちの会議が開かれ、4年前の議題が再び話し合われた。私はタイ国での鳥たちのお告げを覚えてはいたが、それでもタイの涅槃入りに備えて、準備を手伝おうとしていた。欧米の年長の法師たちの多くがタイを訪問する計画をたて、私も同様にするよう勧められた。こうして私はベトナムを訪れたのだった。
タイは慈孝寺の敷地内に昔から専用の庵があり、そこに落ち着いていた。慈孝寺にはタイの弟子たちと、またプラムヴィレッジ伝統の実践をしない男性僧侶たちがいる。だが、タイの存在そのものが皆が調和的に暮らすのを助ける役目を果たしている。タイは差別したり、「誰が自分の弟子であり、また誰がそうでないのか?」と尋ねることはしない。ただ自国の人々の苦難を減らすために効果的な法門をもたらそうと望んでいるだけだ。
タイを一目見ようと、世界中から多くの人が集まるが、それは必ずしも可能ではない。フエの気候が蒸し暑すぎるか寒すぎるかすれば、山脈の反対側にある、気候穏やかなダナン近くで過ごすからだ。このためタイに会いに来た人々が落胆することもある。タイは未だに、またこれまでもずっとはにかみ屋で、時として大人数の群衆を避けることさえある。確かにタイに会えるのは実に恩恵だ。弟子たちや風景を見つめるタイの目は未だに明るく輝いている。タイが今この瞬間を生きているのを、真に感じ取れるのだ。
出家した弟子たちにとって、タイと一緒に食事できることは大きな喜びだ。倒れる前のタイはいつだってたくさんの男女の僧侶たちと食卓に着くのが好きだった。側近たちがタイの為に調理した料理のほとんどを私たちに分け与え、自分の器にとるよりもずっとたくさんの食べ物を弟子たちの器にあげていた。倒れた後、タイはほとんど一人で食事をとれるようになっても、近くに座っている弟子たちに食べ物を分け与えるのを再開した。2016年、プラムヴィレッジのロウワー・ハムレットで、タイが側近たちに助けられながら食事するのを見て私は心を揺さぶられた。タイにとって、食べ物を口に入れることは簡単ではなかったが、悔しさや恥ずかしさの感情にのまれることなく、胸に食べ物がこぼれようとも、完全なる注意をもって咀嚼し、食べ物を満喫し、マインドフルに食べることを実践をしているのが見て取れたのだ。
タイの存在は、未だに慈孝寺の儀式に威厳をもたらしている。臨席できるかどうかは分からなくても、私たちはタイが必ずおいでのものとして儀式を執り行う。2016年、発作から間もなくのある時、プラムヴィレッジで新しい導師たちのための法灯継承式を執り行おうとしていた。私が年少のシスターに法灯を継承しようとしたちょうどその時、法堂にタイが来られた。タイがいたのは法堂の反対側だったが、その瞬間、私はタイに導かれるかのように背筋をまっすぐに伸ばして座った。
フエにタイを訪問した時、私はタイが慈孝寺の系譜の始祖であるナット・ディン禅師(1783-1847)の継続であることを見てとった。ナット・ディンは人生の終焉が近づくと、公的生活から退く許可を王に求めた。サンガにたゆまず尽くしたナット・ディンは、王族の霊的な指南役でもあった。その後、現在タイの暮らす建物と同じ場所に、母の面倒を見たり、悟りをひらいた僧侶としての偉大な自由を満喫するため、小さな庵を建てた。タイもまた公的生活を退き、肉体的な不自由さを多く抱えてはいようとも、いまだ僧侶としての自由がもたらす幸福を享受しているのだ。
現在私は、フランス南西部のかつてのティク・ナット・ハンの庵に滞在している。この場所は2016年まで30年以上に渡って、タイの存在の恩恵を受けてきた。だがタイはここを本当に離れたのではない。タイのマインドフルな歩みは小道に刻まれ、タイのマインドフルな呼吸は風となってポプラの木々を吹き抜ける。タイの平和と喜びは手ずから植えた竹林へと育った。慈孝寺もまた同じなのだ。タイの存在がこれから長年に渡って、その理解と慈悲のエネルギーを残し、木々の葉の一枚一枚、石ころのひとつひとつによって、私たちはそれを感じ取ることになるのだろう。
<シスター・アナベル・レイティについて>
シスターアナベル・レイティは、ティク・ナット・ハンのもとで出家した初めての西洋人尼僧。「真の善行:イギリス人尼僧の旅の著者。
<写真> 起源となったベトナムの慈孝寺で、車いすで歩く瞑想を導くティク・ナット・ハン。Photo by Paul Davis.