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──インドのチベット尼僧の院長先生の言葉から
「慈悲(コンパッション)とは容認や見逃すことを意味するのではありません。
誰かが間違った行いをしていれば、それが間違った行いだと私たちには分かります。でもそれによって私たちが動転したり、憤るしかないわけではないのです。
私たちは同時に、その人達の持つ妄想や負の癖のエネルギーが、置かれている状況に対して反応しているのを理解することができるのです。つまり私たちがすべきは、そのことを打開していくために、怒りをもっと遥かにポジティブなエネルギーに変えることなのです。
もし私があなたに対して怒っていれば、それはあなたが私に対して怒り返すことを焚きつけ、そしていさかいとなります。私は自分が正しくあなたが間違っていて、あなたは自分が正しくあなたが間違っていると考え、お互いに耳を貸さなくなります。
でも、もしあなたに本物の純粋な理解と慈悲があるなら、たとえあなたが『いや、これは間違ってる。やめなさい!』と言おうとも、その根源は憎しみではないのです。
それは私たち、つまり人々と私達自身が、未熟な行いによって、自他に害悪をもたらすことがあることをよく知り、それがいかに悲しく残念なことであるかを真に理解し、どうしたらそれを巧みに、もっと遥かにポジティブなものに変えていけるのかに取り組んで、対処していくことなのです。そこが要点なのです。」
ージェツンマ・テンジン・パルモ師