2019.12.17掲載
この肉体が滅びることが、私という存在の終わりではないのです。
それはちょうど、この私の急須と似ています。中にはお茶の葉が入っています。
急須にお湯を注ぐと、お茶のエキスがお湯に出ます。
お茶のもっとも本質たる要素が溶け出し、そしてそのお茶を私が飲むことになるのです。
二煎目のお湯を入れると、薄くはなってもまだお茶は楽しめます。
でも、新しくお湯を注ぎ続けるうち、エキスのほとんど出きったお茶の葉だけが残ります。
私が飲んだお茶は形を変え、詩として、考えとして、法話として継続していくのです。
そのことをあなたが深く見通すとき、お茶が継続していくのが分かります。
その時、急須に残っているものは、もうほとんどお茶と呼べるものではありません。
植物の栄養となるべく、土に埋めるのがふさわしいお茶殻が、僅かに残っているだけです。
つまり、私が亡くなるときに滅ぶ肉体とは、ただのほんの残留物に過ぎないものなのです。
『業』の面からみると──つまり「思い」と「発言」と「行動」の観点からいえば──、最上の部分は、もうそこには無いのです。
そして、その部分こそが、真の私の継続なのです。
だからこそ、私たちは自分の考えや発言や行いに気を配り、省みなくてはなりません。何一つとして失われることがないのですから。
これが真実です。
その種のエネルギーはまた結合して、私たちの継続を、また新しい姿で発現するのです。
つまり死ぬとは、有から無へ、誰かから何者でもない者へと、変り果てることではありません。 そうした考え方は真実ではないのです。
このことについて、私たちはよく考える時間をもたなくてはなりません。
私たちの思考では、死ぬということは、何者かから突如として誰でもなくなるという意味をもっています。
でもあなたが有から無へと変わり果てるというのは、真実ではないのです。
たとえばあなたが雲を深く見つめるとき、雲とは無生無滅の性質だと理解できるでしょう。
誕生するとは一体どのような意味をもつのでしょうか。
私達の思考では、生まれるとは、突如として無から有へと変わることです。
何者でもない所から、突然誰かになること。
それが私たちの誕生の定義です。
でも深く観るとき、瞑想を実践するとき、この世の何一つとして、そうなってはいないことが分かるのです。
雲は、無からは生まれないのです。
雲とは、湖水や海水の継続であり; 熱やその他それぞれの継続なのです。 つまり雲が生まれることは、姿を現わすことであり、新しい発現となることなのです。
雲が死ぬ、とはどういった意味なのでしょうか。
雲が死に絶えることは不可能であり、雨やあられ、雪や氷、もしくはお茶のような、何か別のものへと姿と変えるだけです。雲は、単に無へと変わり果てることはできないのです。
空に浮かんでいる雲が、半分雨になりかけているところを想像してください。
半分になった雲が、水の流れへと変わりつつあるもう半身を見下ろして、自分の新しい姿に向かって微笑んでるのを思い浮かべてみてください。
何一つとして、失われることはないのです。
空に浮かぶ雲になるのは素敵なことです。でも、丘や草原に降り注ぐ雨へと姿を変え、河と一つになることもまた素晴らしいのです。
何故私たちは死を怖れるのでしょう?
死とは存在しないのです。
そこにはただ変容と新しい姿が存在するだけなのです。
─ティク・ナット・ハン
「生きるべきか、死ぬべきか、それはもはや問題ではない」
ティク・ナット・ハン
翻訳・西田佳奈子