パーセナディ王は、護衛も伴わずに、たった一人でブッダを訪ねた。僧院の門で車と操縦者も置いて行った。
王はブッダの住む茅葺小屋の前で、ブッダに出迎えられた。
正式なあいさつを交わすと、王はきわめて率直に尋ねた。
「ゴータマ師よ、あなたは完全な悟りを開いたブッダだと人々から讃えられている。しかしながら、あなたの様な若さでなぜ悟りが開けるのか、私は自問するばかりだ。
あなたよりも修行年数で勝るプーラナ・カッサッパやマッカリ・ゴーサーラ、ニガンタ・ナータプッタ、サンジャヤ・ベーラッティプッタといった尊師たちですら、完全なる悟りを得たとは宣言してはいないのだ。
パクダ・カッチャヤーナやアジタ・ケーサーカンバリンでさえも。
こうした尊師たちをご存知か?」
ブッダは答えた。「陛下、私はこれらの師すべてについて聞き及んでおり、その多くと面識があります。
精神性の達成とは年齢によるものではないのです。悟りの存在は年数によって保証されるものではありません。
決して見くびるべきではないものがあります──幼い王子、小さなヘビ、火の粉、そして年若い僧侶。
王子には幼くても王の人格と運命があります。
小さな毒蛇は一瞬にして大の男を殺すことができます。
火の粉ひとつが、森全体や大きな街を焼き尽くし、灰にするかもしれません。
そして年若い僧侶には、完全なる悟りが開けるのです!
陛下、賢人は決して、幼い王子や小さなヘビ、火の粉、そして年若い僧侶を見くびりはしないものです。」
パセナーディ王はブッダを見つめた。感心したのだ。
ブッダの声は穏やかで静かだったが、話したことは簡潔で甚だ深みがあった。王はブッダを信頼できると感じた。
次いで王は抑えきれなかった疑問をぶつけた。
「ゴータマ師よ、あなたが人々に愛するなと忠告したと話す者がいる。
その者たちの話によると、人は愛せば愛するほど、さらに苦しみ、絶望するのだと。
その説にいくらかの真実があることは理解するが、心落ち着かないのだ。
愛がなくては、人生は意味がなくなってしまうように思える。
解決を助けてはもらえないか。」
ブッダは温かい目で王を見た。
「陛下、とても良い質問です。多くの人がこの問いの恩恵をこうむるでしょう。
愛には多くの種類があるのです。私たちはそれぞれの愛の性質をつぶさに確かめるべきです。
人生は愛の存在を非常に必要としますが、その愛は情欲や欲求、執着、差別、偏見に根差す種のものではありません。
陛下、切実に求められる別種の愛があるのです。その愛は慈しみと思いやり、あるいは慈悲から成ります。
通常人々が愛と呼ぶのは、親子や夫婦、家族、誰かの城や国に属する人々の間にあるものです。
こうした性質の愛は「自分」や「自分のもの」という概念に依存するために、執着と差別のもつれが残るのです。
人々は自分の両親や配偶者、子供や孫、身内や自国民だけを愛することを求めます。
このために執着にとらわれ、愛する者が事故に遭わないか、そんなことが起こる前から心配するのです。
そして、ひとたびこうした事故が起きれば、恐ろしく苦しむのです。
差別に根差す愛からは偏見が生まれます。
自分自身が愛する人々の輪から外れた者たちには無関心だったり、敵対心すら持つのです。
執着と差別は自分にとっても他者にとっても苦しみの元なのです。
陛下、生きるものすべてが渇望する愛とは、慈しみと思いやりなのです。
慈しみは幸せを他者にもたらすことができる愛です。
思いやりは他者の苦しみを取り除くことのできる愛です。
慈悲とは見返りを求めません。
慈悲は、両親や配偶者、子供たちや血縁者、城の人々や国民だけに向けられるものではありません。あらゆる人々と生きるものすべてに向けて拡大するのです。
慈悲には差別も「自分」あるいは「自分のもの」もありません。そして差別がないために、執着も無いのです。
慈悲は幸福をもたらし、苦しみをやわらげます。慈悲とは苦しみや絶望を生むことがない愛です。
それがなくては、あなたが言うように、人生から意味は失われるでしょう。
慈悲があるなら、人生は平和と喜び、満足感に満たされるのです。
陛下、あなたは全国の統治者です。あなたの慈悲の実践によって、国民はみな恩恵を受けるでしょう。」
王は物思いにうつむいた。王は見上げると、ブッダに問うた。
──ティク・ナット・ハン