『清らかな水でこの手を洗って祈ろう
すべての人に
真理を大切に受け取る
清らかな手がありますように』
こうした偈を用いることは、明晰さと正しい念を生み出すことを促し、もっとも平凡な作業さえも神聖なものへと変えます。たとえそれが手洗いに行くことであっても、ゴミ出しや、また薪割りだろうとも、その行動には詩と芸術を吹き込むことができるのです。
たとえあなたに壁に向かって9年間座る忍耐力があったとしても、座る瞑想は禅の一部にしか過ぎません。あなたが料理し、皿洗いし、掃き掃除し、水運びし、薪割りするその間、現在の瞬間に深く安住しなくてはなりません。
私たちは食べることを目的に、料理すべきではありません。清潔なお皿があることを目的に、皿洗いすべきではありません。私達は料理をするために料理し、皿洗いをするために皿洗いすべきなのです。何かもっと意義深いことをするためにこうした家事を済ませることを目的に置くべきではないのです。
皿洗いも料理することも、それ自体がブッダの状態へと至るための道筋なのです。ブッダの状態とは長時間座った末になるものではありません。
禅修行とは、食べること、呼吸すること、料理すること、水を運ぶこと、便器をみがくことです──それは身体、言葉、心の行いすべてに──正念を吹き込むことであり、木の葉の一枚一枚、小石の一個一個、ごみの山の一つ一つ、そして私達のマインドがあるべき場所に戻るためのあらゆる道筋を観照することなのです。
ーティク・ナット・ハン
画像: Plum Village