賢明な自問自答

愚かな自問自答

時として私たちは、自分があたかも社会のありとあらゆる不公正の重荷を背負いこんで、苦海に溺れているかのように感じてしまうことがあります。

 

ブッダはこう話しました。

 

「賢明な人は苦しみを味わったら、こう自問するのです。

 

『この苦しみから自分自身を自由にするために何ができるだろうか? 自分の助けになるのは誰だろうか? この苦しみから自分自身を自由にするために、私は何をしたのだろうか?』

 

しかし、愚かな人は苦しみを味わったら、こう自問するのです。

 

『私を不当に扱ったのは誰だろうか? 自分が不当な行いの犠牲者でしかないことを他の人に示すためにはどうすべきだろうか? 自分に苦しみをもたらした者を、どうすれば罰することができるだろうか?』」

 

同じ条件下に置かれても、私たちと同じようには苦しまない様子の人々がいるのはどうしてでしょうか。

 

最初の一連の質問を書き留めて、自分自身の苦しみに囚われた時には、読み返すといいでしょう。

 

もちろん、あなたには苦しむ権利があります。でも実践者として、あなたには実践しない権利はないのです。

 

私たちは誰もが理解され、愛される必要があります。でも実践とは、ただ理解と愛を期待することではないのです。

 

実践とは、理解と愛を実践することです。誰一人あなたを愛さず、理解しないように思えても、どうか不平を言わないでください。その人達をもっと理解して、愛するように努めてください。

 

誰かがあなたを裏切ったら、その理由を尋ねてください。その責任が相手だけにあると感じるのなら、もっと深く見つめてください。

 

もしかしたら、あなたが相手の裏切りの種に水をやったのかもしれません。

 

もしかしたら、相手が距離を置くことを助長するような生き方をあなたがしてきたのかもしれません。

 

私たちは皆、共同責任があり、もし相手を責める態度だけにしがみつけば、状況は悪化してしまう一方なのです。

 

もしあなたがその人の忠実さの種に水をやることを学ぶことができたら、その種は再び花開くかもしれません。

 

相手との関係性を取り戻すために、あなたが何をすべきで、何をすべきでないかを知るために、あなた自身の苦しみの本質を深く見つめてください。

 

あなたのマインドフルネスと集中、そして洞察を現実に適用すれば、何があなた自身を養うものなのか、そして何がその人を養うものなのかを、あなたは知ることができるようになるのです。

 

ーティク・ナット・ハン